60年代日本の経済
60年代の日本はちょうど高度成長期。
物作りは量的なものから機能・性能を重視した質的なことに重点が置かれ、”MADE IN JAPAN”というブランドが徐々に世界中に広がっていった。
国内に目を向けても新幹線が開通し、1964年10月10日から24日まで、アジア初のオリンピックが東京で開催。エチオピアの「走る哲人」アベベ・ビキラ(31)がマラソンで前人未到の二連覇を世界最高記録で達成した。その一ヶ月前に急性盲腸炎の手術を受けたばかりのアベベは優勝を危ぶまれていたが、レース終了後「敵は67人のランナーではなかった。私自身だ。私はその戦いに勝った」という名言を残す。
また、この大会の公式記録映画を市川崑監督が斬新な手法で製作した。
この作品は、記録性を重んじるスポーツ団体やオリンピック担当大臣との間で
「記録か芸術か」の論争を巻き起こしたが、公開されるや1800万人もの観客を
動員する空前の大ヒットとなった。

日本でのHippie
1967年から1970年頃までブームが続くが、ヒッピーよりも「フーテン族」と言われた。フリーセックス、シンナー、睡眠薬などのドラッグを使い酩酊にふけっていた若者たち。反商業的、前衛文化に熱中した若者達をアングラ族と呼んだ。新宿を中心にポップアートやサイケ調(サイケデリック)サウンドを楽しむ既成文化と対抗したアングラ族とフーテン族に2分された。
インドなどの東洋文化への憧れや放浪ではあるが海外旅行ブームが起こった。新宿の画廊喫茶「風月堂」がカウンターカルチャー(対抗文化)の発信地となり、アングラ劇団、ミュージシャン、作家なども集まった。全体的には、自然で汚いドレスダウンのファッション。ドロップアウト、現実逃避などという言葉も流行したほど。