ジョン・F・ケネディ
☆キューバ危機☆
1962年10月14日、アメリカのU-2偵察機がキューバで中距離ミサイルの設置場所をはじめて写真にとらえた。それはソ連製のミサイルで、カストロとフルシチョフの大胆な共謀だった。

ケネディは直ちに対策委員会を組織してキューバからミサイルを撤去させる策を練った。採用されたのは、キューバへの軍事輸送を妨げるための海上封鎖だった。アメリカ側はソ連の対応次第で攻撃も交渉も可能であった。
10月22日、ケネディは全国ネットのテレビ放送でアメリカの政策をソ連に伝え、キューバからの撤退を要求した。アメリカ艦隊がカリブ海に向かい、核爆弾を搭載した爆撃機が出撃し、世界中のアメリカ軍が警戒態勢についた。核戦争勃発の危機的状態を全世界が固唾を飲んで見守る中、27日フルシチョフはついに、アメリカ側がキューバの主権を守る誓約を確認した上で、ミサイル撤去を約束する。
その後、ケネディは1964年に公民権法を制定(※詳しくは下記のキング牧師の項にて)。ケネディがいなければあと、20年は遅れていただろうといわれている。そして忘れてならないのが、ダラスでのケネディ暗殺。
家庭用フィルムで撮影されたその映像は今では、国家的な重要資料として扱われている。この暗殺の黒幕はCIAであるとか軍産複合体であるとかいう説があるが、その真相は今もって謎であり、当時の重要資料は保管され、2039年にすべて開示されるというが、開示される頃にはほとんどの資料が盗み取られているというのが大方の見方である。