1960年代初頭から1975年4月30日までの間、北と南に分かれてベトナムの地で繰り広げられた武力抗争である。北を支援したのがソ連、中国などの社会主義国であり南を支援したのがアメリカであった。
そもそもアメリカのベトナムに対する介入はアメリカのヘゲモニーのもとに統一された資本主義経済を構築するために不可欠と思われた日本の経済再建を、日本に東南アジアという市場を与えることによって達成しようとしたアメリカが、この構想を台無しにしかねない脅威を除去しようとした狙いや、アメリカ経済を活性化させるために軍産複合体を基盤にして経済的に潤おうとした考えなどアメリカにとどまらず各国には戦争という枠ぐみを超えた様々なもくろみがあった。
ケネディ、ジョンソン、ニクソンとアメリカにとっては3代の大統領が関与し多いときには年間54万人の軍人を派遣。国の名誉を賭けて挑んだ戦争であった。しかし終わりの見えない戦争に徐々に嫌気がさし、ウッドストックに代表される反戦運動が繰り広げられるようになった。ケネディの登場により出口の見えなかった戦争に終止符が打たれようとしていた矢先ダラスでの暗殺、結果としてそのままずるずる長引く結果となってしまった。結論から言うとこの戦争においての勝者は北側であった。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ6万人近い戦死者を出し、南北ベトナム人に至っては200万人近い人々が犠牲になったといわれ、四半世紀たった今でも大量に空中散布された枯葉剤の後遺症で多くの人々が苦しんでいる。
ジョン・F・ケネディ
アメリカ合衆国第35代大統領。当時の社会情勢の中にあって手腕を発揮したアメリカ史上最も偉大な大統領と言っても過言なのではないでしょうか。公民権運動に至ってはケネディの存在がなければあと20年は遅れていただろうと言われている程であり、誰もが免れないと思っていたキューバ危機を寸前の所で回避するなど数々の偉業を成し遂げている。そんなケネディに降りかかったのがベトナムという問題であった。アメリカからはるか遠く離れた戦争になぜアメリカが介入しなければならないのか?短期間で終わるはずであった戦争がなぜこんなにも長引き、終わりさえ見えないのか?などアメリカ国内にとどまらず国外においても徐々に反戦ムードが高まる中、ケネディの手腕によって終わりが見えようとしていたまさにその時、ダラスにおいて暗殺されていしまう。当時は狙撃によるオズ・ワイルドの単独犯とされたが、その裏にはもっと巨大な組織(CIA)が関与していたというのは承知の事実である。その事実が示されていると言われる秘密文書は2039年まで公開不可でその文書が公開可能となる日までにはあらゆる重要書類はふんしゅつされているとみられる。 この頃からケネディ一家は呪われた家族と呼ばれるようになり、弟のロバート・ケネディ(大統領立候補演説中に射殺)されたり、最近ではケネディJr.が自ら運転するヘリが墜落するなど、不可解な死が多い。
リチャード・ニクソン
弁護士、アメリカ海軍の勤務を経て46年に下議員に・・53年時のアイゼンハワー政権のときには副大統領に就任。次期大統領候補とされたがケネディとの戦いに敗れてしまう。ケネディ死後(ケネディを妬んでいたニクソンも暗殺に絡んでいたと言う説もある)ジョンソンが一時的に大統領の座についたが、68年に行われた選挙においてニクソンが当選。念願だった大統領という地位についに座ることが出来た。強い反戦運動が続く中、これ以上戦争を続けるわけには行かないと判断(本音はCIAに恩があり続けたかった)し、ベトナム戦争を終結。その外にも毛沢東主席がいた中国に歴史的な訪中やキッシンジャーの登用、ニクソン・ショック(これによって、1ドル=360円という固定相場が崩れた)などの業績を残し、72年には圧倒的な支持を得て再選するが、同年の6月に「ニューヨーク・タイムズ」が大統領派による民主党国民委員会本部侵入事件を報道(ウォーターゲート事件)これに関係する会話テープの提出を拒んだために国民世論の批判を受けることになってしまう。74年に関係者が有罪となり大統領自身も弾圧を受ける可能性が出てきたためにアメリカ史上初めての任期中に辞任(テレビの生中継で辞任の挨拶がなされた)。次期大統領のフォードはニクソンを全面恩赦その後も事あるごとに今でもウォーターゲート事件はクローズアップされている。94年死去。
ホー・チ・ミン
死に至るまでホー・チ・ミンの人生は「抵抗」のシンボルとして抗仏・抗米独立戦争を指導し「自由と独立ほど尊いものはない」(66年)の発言にその精神が集約、象徴された。ホー・チ・ミンは、自国の国民に対して大きな犠牲を求めた指導者であったが怨讐の的とはならなかった。これは彼の指し示した道が、すなわち「正しい道と距離」であり続けたことによると思われる。ホー・チ・ミンの「救国」と「抵抗」は犠牲を伴い資本主義と社会主義の対立と言う足枷を負っていた、そして彼も生前、その呪縛から逃れることは出来なかったが、彼の指導したベトナムの戦いは「冷戦構造」を突き抜け民族統一を果たし、ベトナムのみならず、世界が「大国主導」から解き放れる条件形成に大きな役割を果たした。―ベトナムの戦いは世界構造に一石を投じたのである。 ベトナムとホー・チ・ミンの勝利は1969年に彼が死去するまでには達成を見なかったが、その死は世界の極めて多くの人に惜しまれた。彼は「たたかう」ことと「愛すること」を同時に体現し得た類希な指導者であった。ホー・チ・ミンは革命の道を示した。それは全世界に残した彼のメッセージであり、その大きな道はまだ里程の半ばであるのかも知れない。