WEATHER REPORT
LIVE IN TOKYO
結成後、間もない時に行われた来日公演の模様を収録。彼らが織り成す独特のサウンドは この時期からはっきりと聞き取ることが出来ます。

ナショナリティも肌の色もまったく異なる4人 によって結成されたこのグループは、ある意味で時代の要請が作り出した必然のグループだった。 エレクトリック・イクイップメントを味方につけたウエザー・リポート(以下WR)は 以後80年代半ばまで様々な変遷を続けながらもジャズ=フュージョン界を疾走する。
1932年ウィーン生まれのジョセフ・エンリッヒ・ザヴィヌルことジョー・ザヴヌルは、 ヨーロッパでの活躍の後1959年アメリカに渡り、メイナード・ファーガソン・バンドを 皮切りにダイナ・ワシントンの伴奏、キャノンボ−ル・アダレイ・グループでの長い間の活躍 などで次第に頭角をあらわし、マイルス・バンドにも起用された。
特にキャノンボールとのコラボレイションはWR結成直前まで続き、信頼の厚さを感じさせる。 WR後期にはウエイン・ショーターとの関係が危ぶまれたがザヴィヌル・シンジケートの結成など 独自の道を歩み始めた。
ウエイン・ショーターは1933年ニュアークの生まれ。16歳からクラリネットをはじめ テナーに転向したあとニューヨーク大学に学び、ホレス・シルヴァーに見出されジャズ界にデビュー、 1958年に加入したメイナード・ファーガソンのバンドでザヴヌルと出会う。 その後、ジャズ・メッセンジャーズでの幅広い活躍でマイルスから目をつけられ1964年には マイルス・グループへ加入、コルレーン以降のこのバンドの最高のサックス奏者となった。 60年代後期からソプラノもプレイするようになり、WRに加入する。
ここで各メンバーについて少し触れておこう。 ミロスラフ・ヴィトウスは1947年プラハの生まれ。 クラシック教育を受けたのち奨学金を得てバークリー音楽院に進み,67年にニューヨーク・シーンで デビュー。ハービー・マン、チック・コリア、ラリー・コリエルらとプレイした後、 WRに加入するが1973年で退団した。初期WRのベースラインを支えたヨーロッパの逸材。 アルフォンゾ・ムザーン(ds)は1948年生まれ。 1966年にニューヨークへ移り、バート・バカラック、ロバータ・フラックらと共演、 またロイ・エアーズとの演奏も有名、この頃まではポップス畑のセッション・ドラマーとして 売れっ子だった。1971年にWRに加入。その後のマッコイ・タイナーやラリー・コリエルとの 演奏のほうが印象強いかもしれない。 第1期WRはヴィトウスと二人のリーダーとのコラボレイションによって進行した。 多くの名盤が残されているがとりわけ結成直後の早い時期の来日で日本のファンの度肝を抜いた 『イン・トウキョウ』は忘れられない。エリック・グラヴァットの強力無比のドラミングから 叩きだされるリズムは強烈だった。リターン・トゥー・フォーエヴァー、キース・ジャレット、 と続く来日ラッシュの中でも若いファンの心を一気につかんだのがWRだった。 ある意味で純正ジャズファンからフュージョンの時代を広げたのがこのグループとRTFだった。 そのほか多くのメンバーがゲストで参加したりしたが、やはりジャコ・パストリアスの参加こそは、 このグループをスーパー・グループへと押し上げた一番大きな要素だろう。 『テイル・スピニン』から参加し始めたジャコはその後のWRの評価を決定付けた 『ブラック・マーケット』でついにその全貌をわれわれの前に現わした。 エレクトリックであるかどうかなどという論議を超えたところからジャコはベースのあり方に 革命を起こし、ほとんど全ての若きベーシストがジャコに影響を受けたといってもおかしくない。 『ブラック・マーケット』『ヘヴィー・ウエザー』の連続ヒットによってついにWRは 押しも押されぬジャズ界の大物にのし上がった。このグループの進撃は『ナイト・パッセ−ジ』 まで続き、ジャコ在籍時代がスリリングという意味ではWRの黄金時代といっていいだろう。 ジャコ=ピーター・アースキンを中心線にウエインとジョーが左右でグループを引っ張るという この時期のWRの形を最後に体現したのがこの作品だった。