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1947年7月20日生まれ。父親はマリアッチのヴァイオリニスト、ホセ・サンタナ。チャックベリー、B ・B・キング、フレディー・キング等のブルースをルーツにもち、T・ボーン・ウォーカーやのちに義父となるサウンダース・キング等の影響を受けマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーンのジャズの巨匠やレイパレット、エディ・パルミエリ等のサルサの大物に魅せられた彼は66年フィルモアでポール・バターフィールド・ブルースバンドを見てバンド(サンタナ・ブルースバンド)を結成することを決心。24の時であった。 結成当初はブルース的なものをやっていたが、’67年のフィルモアでビル・グレアム(マナージメントを手がける)に出会いサウンドはラテン的なものへと変革して行く。 同年CBSと契約。メンバーの脱退などがありどたばたしたが’69年ウッドストック・フェスティバルに出演。この時の演奏は神がかり的で全くといっていいほど無名の存在だった彼は一気にスターダムにのし上がる。 これを期にリリースされたデビューアルバム「サンタナ」は全米最高4位を記録。100万枚以上を売り、108週連続ランクイン。ラテン・ロックというジャンルを確立した。 そして次に発売された「天の守護神」で6週連続全米No.1を記録。3枚目の「サンタナV」も5週連続全米No.1を記録した。このアルバム製作中にフィルモア閉鎖のためのイベントに参加。その模様は映画<フィルモア最後の日>と同名のライヴ・アルバムに収められている。そして同時期に行われたソウル・トゥ・ソウルにも参加している。メンバーの脱退などにより、このアルバムをもってオリジナル・サンタナの活動を終える。 |
次なるステップとして作られた「キャラバンサライ」(全米8位)はインストゥルメンタル中心の作品でこれまでにない幻想的な世界を作り上げた。この時期カルロスはジャズ系ギタリスト、ジョン・マクラフリンと交流を持つようになり彼とのジョイント・アルバム「魂の兄弟達」を製作する。そしてこの傾向は、敬愛するジョン・コルトレーンの未亡人アリスとのジョイント・アルバム「啓示」にまで至る。 ’73年ヴォーカルにレオン・トーマスを迎え待望の初来日が実現。その時の模様は日本のみで「ロータスの伝説」として発売された。ちなみにジャケットは横尾忠則氏によるものである。そして来日メンバーでの「ウェルカム」をリリース。 ’74年にはスタンリー・クラーク、フローラ・プリムを迎え「不死蝶」をリリース。その後エリック・クラプトンとも交流を深め音楽はよりポップな方向へと向かい「アミーゴ」をリリース。”哀愁のヨーロッパ”などが収められているこのアルバムは今なお突出した作品の1つである。 ’78年3月にはエアロスミス、ハート、デイブ・メイスンなどと共に”カリフォルニア・ジャムU”に出演。10月には「太陽の秘宝」がリリース。 全体的にヴォーカルを押し出したロック感覚のアルバムでファンの間では賛否両論となった。 ’79年3月には初ソロ・アルバム「ワンネス」をリリースするが、売上的には不振に終わる。同時に来日も実現する。 カルロスは、バンドとしてはコマーシャル色の強い作品を目指す一方、ソロでは精神性の高いフージョン色の強い音楽を志向するようになる。 ’80年代に入ってからの第1弾(通算13作目)「ジーバップ!」をリリース。ポップ色をより強めた本作は世界各国で好セールスを記録。 |
600万枚を売る大ヒット作品となった。そして’81年に来日、日本のギタリスト高中正義とセッションを行っている。 ’82年には前作同等、ポップ的な要素を持った「ジャンゴ」をリリース。このアルバムにはオリジナル・メンバーの1人グレイグ・ローリーがジャーニーを脱け復帰。プロデューサーにも名を連ねている。そして’88年フィルモアやウッドストックでのライヴ、リミックス、未発表曲などサンタナの歴史を収録した2枚組のアルバム「VIVA SANTANA!」をリリースした。 90年6月の「スピリッツ・ダンシング」を最後にコロムビアからポリドールへ移籍。ジャズの巨匠マイルス・デイビスに捧げたアルバム「ミラグロ」を発表。そして結成25周年となる93年には故郷南米ツアーを収録した「セイクレッド・ファイヤー」を発表。翌年にはサッカーのワールドカップ’94開催を記念した「グローリ−ランド」に参加、”ウッドストック’94”にも出演。その後、実の弟のホルヘ・サンタナ、甥のカルロス・ヘルナンデスと共にユニット、”サンタナ・ブラザーズ”を結成。 ’99年には8年ぶりとなる「スーパーナチュラル」を発表。「サンタナV」以来となる全米1位を記録。そして記念すべきミレニアムに行われた第42回グラミー賞にて最優秀アルバム、最優秀レコード賞など9部門を制したのは記憶にも新しいところ。 |