1903年サンクト・ペテルブルグで法律家の父と歌手の母のもとに生まれ、6才の頃より
ピアノを始める。1921年父親の死去により大学を中退。生活のためマリンスキー劇場の
パントマイム一座で端役の俳優となったが、劇場主クーペルの影響を受けたこともあって、
音楽の道に転向し、ピアニスト職に就く。 1923年ペトログラード・アカデミー室内合唱団付属音楽学校に入学。 1927年ペトログラード音楽院指揮科に入学。アレクサンドル・ガウクとニコライ・マルコに師事。 1931年レニングラード・フィルを初めて指揮。レニングラード・オペラ・バレエ劇場で レニングラード舞踏学校卒業公演“グラズノフ:四季”を指揮。同劇場の副指揮者となる。 1932年レニングラード・フィルを指揮してバレエ“眠りの森の美女”を上演。 1937年第1回ソヴィエト音楽芸術週間で、ショスタコーヴィチの交響曲第5番を指揮。 1938年第1回ソ連指揮者コンクールで第1位を獲得し、レニングラード・フィル首席指揮者に 任命。同年、初のレコーディングも行う。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。 1941年独ソ戦が始まったため、オーケストラとともにノヴォシビリスクに疎開。 1942年ショスタコーヴィチの交響曲第7番“レニングラード”をノヴォシビリスクで演奏。 |
1943年ショスタコーヴィチの交響曲第8番をソ連国立交響楽団とともにモスクワで初演。
1944年戦況の好転によりオーケストラともにレニングラードに帰還。
1946年スターリン賞とロシア共和国功労芸術活動家賞受賞。第1回アメリカ公演。
第1回“プラハの春”音楽祭に招聘され、チェコ・フィルを指揮。
1947年2度目の単独外国公演で、再びチェコスロヴァキアに客演。同年、プロコフィエフの
交響曲第6番を初演。 1954年ソ連邦人民芸術家の称号を授与されます。 1955年ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と祝典序曲を初演(オイストラフ独奏)。 第10回“プラハの春”にレニングラード・フィルとともに招かれます。 1956年ヨーロッパ公演(東ドイツ、西ドイツ、スイス、オーストリア)。 その後ウィーンにてチャイコフスキーの交響曲第5番と第6番を録音(ドイツ・グラモフォン)。 1957年ショスタコーヴィチの交響曲第11番を初演。第2回アメリカ公演。 1959年ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番を初演(ロストロポーヴィチ独奏)。 1960年ヨーロッパ公演(イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、 スイス、オーストリア)をおこない、その際、ドイツ・グラモフォンにチャイコフスキーの 3大交響曲をレコーディング。 |
1961年ショスタコーヴィチからレーニン賞を授与。交響曲第12番“1917年”の初演もおこないます。
ヨーロッパ公演(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド)。
1972年交響曲第15番のレニングラード初演。西ドイツ、オーストリア、イタリア公演。
1973年社会主義労働英雄の称号を授与。レニングラード音楽院の教授にも就任。
第1回日本公演。ショスタコーヴィチ:交響曲第5番とベートーヴェン:交響曲第4番ほかを指揮。
1975年ショスタコーヴィチ死去。追悼公演を指揮。第2回日本公演も実施。
1978年ウィーン楽友協会名誉会員に選出。
1979年ポーランド人民共和国文化功労者の称号を授与。
1981年ハンガリー政府からバルトーク記念メダルが授与されます。
1982年レニングラード・フィル創立100周年記念公演。
1984年最後のレコーディング(ショスタコーヴィチ:交響曲第12番)。
1985年最後のコンサート。
1988年1月19日 レニングラードで死去。 |